●吉田 孝行(パンチ)さん
1997年提供。
骨髄バンクへのドナー登録はそれから3年前。当時はまず骨髄移植推進財団へ1度ハガキを出し、その後に骨髄データセンターさんとドナー登録予定日を決め、やっとHLAの検査ができるというシステムでした。しかもこれは1次検査と言われるもので、この後に2次検査があったのですから、今のように骨髄移植推進財団へのハガキ送付もなし、運がよければ偶然見かけた献血バスで献血協力のついでに骨髄バンクのドナー登録もできてしまうという簡単さが夢のようですし、現在は1次検査と2次検査が統合されたので検査のために仕事を休む不便さも軽減されたわけです。
こうなれば、全ての献血場所で骨髄ドナー登録ができる日も近いのかな?
わたしが骨髄バンクへドナー登録したきっかけは、母が5年間寝たきりとなったことがあります。
母は循環器系の病気で、完治には心臓と肺の同時移植しかない状態でしたので、残念ながら5年の闘病の後に他界してしまいましたが、そんな母の闘病中に病院の病棟で知り合った人達の中には数多くの血液難病と闘っている患者さんがいました。
患者さんたちの治療は凄惨を極めていました。それでも、患者さん本人とその家族、看護士さんに医師は「明けない夜はない」と必死でしたが、日常の中に悲しい死がたくさんありました。
自分に何ができる?
正直、何もできません。私は医療の専門家ではないし、メンタル面でサポートしてあげられるほど人生経験も多くはありません。当時のわたしは20代前半でした。
そんな時、病院の脇に献血車を見つけました。
そうか、献血なら協力できるんじゃないか?たぶん、この時の献血が生まれて3度目の献血でした。
そんなことでしか応援できないけれど、それでも何もできないよりは素直に嬉かったものです。
骨髄バンクの存在を知ったのは、母が亡くなり1年と少し経ってからでした。
友人の渡辺俊宏君(無ガンマグロブリン血症という難病で29歳で他界)が「俺の主治医が骨髄バンクの立ち上げで講演をするから一緒に聴きに行かない?」と誘ってくれたのがきっかけでした。
しかし、わたしが骨髄バンクにドナー登録したのはそれから1年後でした。その間に、俊宏君は私たち共通の友人が就職したことを祝う飲み会の席で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。無念です。
さて。ドナー登録はしたけれどなかなか3次検査(現・確認検査)のお呼びはありませんでした。
だから、ではありませんが、わたしは周りが驚くなか20代で結婚し、その新しい生活が1年になろうとしている時に3次検査のお知らせが届きました。
この時は飛び上がって喜びました。まだ「候補者」であって確定はしていなかったのですが、自分しか提供できる人はいないでしょー!とわたしも周りも盛り上がっていました。
この3ヵ月後には正式に提供へのゴーサインが出され、これを聞きつけた仲間達が「お別れ会」を催してくれました。(いまこうしてこの文章を書いているので仲間とのお別れにはならなかったわけですが、いま考えればそれまでの自分との、変に斜に構えて自分に自信の持てなかった自分とのお別れが骨髄提供によってできたように思います。これについては後述します)
この時催してもらったお別れ会でわたしはたくさんの愛と感動を周りのみんなから貰いましたが、渡辺俊之さん(俊宏君のお父さん)が言ってくれた「お前のことは息子みたい思っているから、今回のことは俺の誇りだ」の言葉にボロボロボロボロと泣いてしまいました。日頃のお父さんは寡黙で、男は黙って酒を飲むタイプなので余計に泣けたのでした。
3次検査後は妻も交えて最終同意をし、提供日の1ヶ月前に健康診断、2週間前に自己血採血300mlをし、いよいよ前日に入院しました。
その日は9時に就寝。看護士さんは「眠れなかったら眠剤を出しますよ」と言ってくれましたが、前日までクタクタになるほど仕事をしていたので必要なし。というより、何時でも何処でも眠れるのはわたしの特技。スムーズに眠りに入り、翌朝は5時半に目覚めました。
手術室へ行くためのストレッチャーに移乗したのは6時少し前。その頃には妻も渡辺宏子さん(俊宏君のお母さん)も病室へ来てくれ、予備麻酔で以前気分が悪くなったことがあるわたしは眠剤を2錠飲んで「その時」を待ちました。
久しぶりに見る手術室の無影燈。いよいよ始まるんだなぁといささか興奮しているうちに準備は進み、麻酔の最後の1滴が入った4秒後にはドロドロドロと天井が熔けて、目標10秒!の願いはあっけなく崩れてしまいました。
骨髄採取は腸骨上部4ヶ所より骨の髄へ都合90回針を刺し、細胞密度が高かったので予定より少ない650mlの採取で終了。ちなみに採取担当医は俊宏君の主治医だったKドクター。
病室にはお昼前に戻り、麻酔は覚めているのに朝飲んだ眠剤がまだまだ残存していて結局夕ご飯までご就寝。しかし今度は9時の消灯時間が来ても眠れず、やがて0時になり、3時になり、気が付けば朝まで一睡もできませんでした。
でも、この眠ることができなかった時間に感じた腰の採取部位の痛み、熱いというか存在感があるというか、色々な実感の伴う痛みは忘れることができません。というのは嘘です。実は今ではもう忘れてしまったのですが、その時に感じ考えたことは忘れられないし、これを境に今までの自分と決別していったとわたしは思っています。
誤解を恐れずに言えば、うぬぼれるなとの非難を恐れずに言えば、わたしの骨髄が一人の患者さんの元に届けられ、少なくとも今を生きる希望の一滴にはなったのではないかと思い、それはわたしという人間が存在したから成し得たことで、それはわたしという人間が存在を許されたと思ってもいいのではないか、と思ったのです。
わたしの母は結婚することなく私を産み、それは周りからも、そしてわたし自身も「望まれずに生まれてきた命」という括りで考えられ、考えていました。
でもそうじゃなかった。
わたしはここにいて良かったのだ、と思うことができたのです。
提供後は翌々日に退院し、すぐに職場には復帰しました。
復帰後すぐ、わたしは社長に挨拶に行きました。提供による休みを快く許してくれた会社と社長に「ありがとうございます」と伝えるためでしたが、逆に社長から「ありがとう」と言われました。自分達ができないことをやってくれてありがとうという意味だそうです。
いまはこの会社を辞めてしまった私ですが、社長の熱い心は一生忘れません。
わたしは、骨髄提供はやったけれども、ボランティア活動をやろうとは全く思っていませんでした。提供は個人の責任の内でやれるけれども、ボランティアは少なからず他に対し自分達の思いを伝えなければならない。それがイヤでした。
だからボランティアの手伝いをしてくれないかと言われたときにはためらいましたが、わたしが提供する前日、斎藤江美子さんという方(笑)が病室に訪ねてきて、けろけろけろっぴーというカエルのグッズをたくさんくださったのです。すぐに帰る、無事帰るという思いを込めてくださったわけです。
結局わたしはボランティア活動を始めたわけですが、(けろけろけろっぴーに釣られてかどうかは内緒)この活動によって色々な人にお会いして、色々な勉強ができることに本当に感謝しています。
わたしが骨髄を提供させて頂いた元患者さんは元気でしょうか?
提供間もない頃は「できれば会いたい」と思っていましたが、いまはきっと元気に自分の人生を謳歌していると信じています。もちろん、現システムでは相手を特定することも、ましてやお会いすることもできないのですが、どこの誰とは分からないけれど、きっとわたしと同じ血液が流れている元患者さんは元気で、だからわたしも負けずに頑張ろうと思うのです。
もしも、システムが変り元患者さんも会いたいと願ってくれるのだとしたら、その時は「送り手」「受け手」ではなく、兄弟として会えたらいいなぁと思います。
(福島市在住)
●ロウソク
渡辺俊宏・作
燃えている蝋燭は、
時間と、ともに、
燃え尽きて
此の世から、無く成ってしまう。
でも蝋燭は、自分の身を燃やした分
此の世に、二酸化炭素を残す。
我々にはあまり必要ないが
草木のためには、必要な
二酸化炭素を此の世に残す。
私も人生を燃やした分の
何かを、誰かのために
誰かの心に残せるのだろうか?
●四季の心
渡辺俊宏・作
何事にも動じない強い心を持てと、
神様は、私に冬を与え。
すべてを慈しみ愛せと、
神様は、私に秋を与え。
すべてを燃やして此の世を生きよと、
神様は、私に夏を与え。
神様は、両親や友達といった多くの人々の愛を、
春として私に与えてくれた。 |