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●栗田 加奈子さん
元・白血病患者の私には2つの誕生日があります。
1つはこの世に生を持って生まれた日。そしてもうひとつは・・・骨髄移植によって命の再生をもらった日です。
1997年5月に突然入院を余儀なくされました。
その1ヶ月前から喉の痛みと微熱が続いていたので検査したところ、白血球の上昇があり訳も分からず入院となりました。
当時、幼稚園教諭をしていた私は、受け持ちの子供達のことで頭が真っ白になるばかりでした。
直ちに抗がん剤治療が始まり、吐き気や、発熱、脱毛とそれはかなり辛い日々でしたが、子供たちからもらった手紙やカセットテープを聴きながら必死に治療に専念しました。
そして、約5ヶ月後、退院しましたが、その後も維持治療ということで1ヶ月に1回の治療入院を半年続けました。
その間に、少しの時間でしたが、子供達と再会することができたのです。
私の長い間のブランクを感じさせない子供たちの変わりない元気な姿は、私に保育者としての誇りを感じさせてくれる一幕でした。
結局、仕事は退職せざるを得なかったのですが入院で失った時間を取り戻そうと色々な事をやってみたい希望で満ち溢れていました。
そんな矢先に再発が発覚したのです。
再発したら移植をするしかないという知識は得ていたのですが、今まで頑張ってきたことが一瞬のうちに崩れ去って奈落の底へつき落とされるというのを改めて実感しました。
幸い、私は兄と白血球の型(HLA)が一致していたことが事前の検査で分かっていたので、この再入院は移植のための準備治療のようなものでした。
3ヶ月の治療の後に、移植の為に埼玉県の病院へ入院しました。
移植は一か八か賭けのようなもので、埼玉に向かう新幹線の中で「またこれに乗って帰ってこれるだろうか?いや、絶対帰ってくる!」と、複雑な気持ちがさまよっていました。
病院には移植患者さんが沢山いて、元気になってきている患者さんの話を聞くうちに、私も乗り越えられるかもしれないと勇気をもらえました。
そして1999年4月23日、兄からの新鮮な骨髄液をもらうことができました。
これが私の2回目の誕生日という訳です。
私の体内に流れてくる骨髄液を見ながら、兄への感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。
移植後は、相変わらずの吐き気には悩まされ、薬が飲めないと看護婦さんを困らせましたが、GVHD(拒絶反応の一種です)や感染症などには罹らずに、順調に回復していきました。
約2ヵ月後、我が家のある郡山に帰ってくることができたのです。そう、帰ってくると決めた新幹線で・・・
自宅療養しながら、これから私にできることはなんだろうと考えた事が骨髄バンクのボランティアでした。
今までの入院生活の中で、同じような病気で闘った友人を何人見送ったことでしょう。
もっと生きていたい、夢や希望を描いていたその友人達の思いを無駄にしたくないと、今でもバンク活動を続けています。
これからももっともっと多くの患者さんに第2の誕生日が増えますように・・・と願い・・・
(郡山市在住)
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